当社会長の記事「陛下の赤い自転車」が文藝春秋に掲載されました。

 
当社会長の記事「陛下の赤い自転車」が文藝春秋に掲載されました。

文藝春秋 戦後70年記念特大号に当社会長の記事が掲載されました。

文藝春秋表紙

陛下の赤い自転車

日光儀杖隊OB 四ノ宮 千春 陛下の赤い自転車


掲載記事

記事全文

 

香川県丸亀市出身の私が近衛師団に入隊したのは二十一歳のとき、昭和十八年一月のことでした。
近衛兵になるには身元の確認や地元の推挙、徴兵検査での甲種合格など厳しい条件があるのですが、なぜか私もその末席に加えていただきました。
 天皇陛下の周辺を護衛する近衛は、他の兵とは違うという特別な意識がありました。些細なことで言えば、 外食ではにぎり寿司は絶対食べない。感染症を防ぐためです。また、毎日日報を書くのも仕事の一つでした。 帽章も近衛兵には桜が付いており、通常の星とは違いました。
 翌十九年の六月、近衛兵歩第一連隊に新しく四中隊という部隊がつくられると、私はその隊への配属を命じられました。 任務は日光に疎開される皇太子殿下(今上陛下)の警護。日光にある田母沢御用邸の護衛には、数十人の一個小隊(日光儀杖隊)で 出動しました。われわれの拠点は近隣にあるキリスト教教会の礼拝堂です。毛布を敷いて寝たのですが、冬の間は相当寒かったことを いまでも思い出します。
 翌二十年七月になると戦況は悪化し、殿下はさらに西の奥日光へと移動することになりました。当時あるところで撃墜されたB29を 検分した際、機内にあった地図上の東照宮のところに爆撃対象の目印がついていたというのです。田母沢御用邸は日光東照宮の目と鼻の先でした。
 奥日光では毎日、陛下をお見かけしました。陛下は鉄筋コンクリート造の南間ホテルに滞在され、近隣のスキー小屋を改修した小屋を学問所とされ通っておられた。 私の記憶に鮮やかにあるのは、陛下がよく赤い自転車に乗られていたことです。東京の御所では乗馬を日課にされていましたが、奥日光ではそれがおできにならない。 その代わりだったのでしょうか、非常に熱心に乗っておられた。傅育官たちが「もうお休みの時間ですから」と止めてもお聞きにならない。 当時は小学六年生。さぞ楽しかったのでしょう。
 護衛の担当は一日おきに配置が変わる態勢でしたが、われわれの武装は軽易なものでした。陛下が勉強小屋へ行く際に同行する当番兵だけは実弾五発を 装填するのですが、それも熊が出たときの護衛のためでした。それ以外の者は日光いろは坂の護衛でも銃は装填していなかった。隊の中に万が一おかしくなってしまった 者が出たらまずという配慮からでした。
 ただ、もちろん中枢部は最悪の事態を想定していました。日光に出向いたわれわれ近衛歩兵第一連隊の司令官は田中義人少佐でしたが、田中少佐は奥様を連れて きておられた。それは、もし米軍が陛下を探しに来たとき、田中夫妻が陛下をわが子と偽装して逃げるための対策だったのです。 事あらば、栃木と群馬の県堺・金精峠を越えて、さらに長野県松代町にある大防空壕まで逃げる。事情を知らなかった近衛兵の中には「司令官となると女房を連れて くるものか」と勘違いをした者もいました。
 玉音放送は湯ノ湖のほとりで聞きました。陛下のお言葉に全員がしゃがみこみ、涙を流しました。
 その直後、事件が起こりました。ホコリを被った黒塗りの車が乗り込んできたのです。「われわれは天皇に退位してもらい、ここに居られる殿下を御位につけ、 あくまで戦争を続行するのだ」と二人の参謀が軍刀を片手に立ったまま迫りました。対峙した中隊長は「戦争を続行されようが、終戦となろうが、殿下をお守りする 任務に変わりはありません」と撥ね付けた。私は直後に当番兵から事情を聞いて驚きました。報告を受けた田中少佐は色白で軍人らしくない容姿でしたが、周辺警備を 強化し、断固としてお守りする姿勢を示しました。
 両陛下には戦後、近衛のOB組織である全国近歩一会などの活動を通じて、何度かお目にかかる機会を頂戴しました。私の脳裏には、あの赤い自転車を一生懸命に漕いで いらした陛下のお姿が今も焼き付いています。