株式会社京石 社歴

 

(有)四宮石材工業の前身は、丸亀藩士岡田兵右衛門が廃藩後、明治初年に 新堀港において開業した岡田石材店に端を発する。岡田家は代々蕃の富くじ 関係を掌る富小屋に関係していたので、一般庶民との交際する機会も多く、 士族の商法とはいわれながらも、早くから商才を発揮し、丸亀の石材業界で は、一頭地をぬく存在であつたという。当時の石材の産地は、現在と同じよ うに広島及与島が中心であって、販売石材は主として護岸等の石積み用の間 地石であった。

二代目岡田重吉は琴平町金沢町四宮清次郎の長男であったが、清次郎が勤王 の志士らとの交流していたことが発覚し、欠所の刑で、琴平から追放された ので、重吉は岡田右衛門の養子として托されたのである。

明治になって塩田の開発が進み、丸亀製塩、安達製塩、土器製塩、野田製塩 塩屋塩田等が相継いで工事を開始し、護岸用の間地石の需要が上昇した。二 代重吉は、石材の売込みに加えて護岸工事を請負い、短期間に大変な成金に のし上がったのである。当時の重吉は、料理屋で座敷一杯に札束を広げて見 せる程の豪勢振りであったという。

重吉には二人の男子があり、長男良助が岡田家を継ぎ、次男利助( 四ノ宮 千春の父) は絶えていた四ノ宮家を継ぎ、兄弟は一緒に岡田石材で仕事をし ていたのであるが、本家を継いだ岡田良助が四十七歳の若さでなくなったの で、岡田石材店の業務一切は父利助が継承することになり、ここに新に四宮 石材店として発足するに至ったのである。

父利助は大正7年明治神宮造営に際して、四国で唯一人の直傭石工として明 治神宮造営局に雇傭され、神宮造営に当った。

四宮石材店が墓石類を扱うようになったのも父の代からで、墓石の外与北山 の大演習の御野立所跡記念碑、丸亀招魂社南側にある明治天皇御在所跡碑等 も父によって建立工事が施工された。特に与北山への石の運搬はトラック、 起重機等の運搬手段のなかった当時としては大変な労苦であったという。

千春は大正11年1月16日父利助(昭和48年3月18日没、85才)母シゲ(昭和51 年3月29日没、87才)の次男として、丸亀市中府町の自宅で生まれた。千春に は1人の兄(茂)があったが、昭和12年、徴兵で佐世保海兵隊に入団、以後 除隊なきまま大東亜戦争に従軍し、幾度かの海戦を戦ってきたが、昭和19年 10月25日、比島沖海戦で、沈没した乗艦の駆逐艦初月と共に運命を共にした。 時に兄は当年29才で海軍上等機関兵曹であった。

千春は昭和11年3月城乾高等小学校を卒業引き続いて青年訓練所及同研究科に 入学6ケ年の課程を終えて昭和17年3月卒業した。

模範青年としてつとに林重吉校長から目をかけられていた千春は、昭和16年 5月22日、皇居前広場で全国青少年に対して、天皇陛下から観閲を賜わった行 事に、丸亀市からの参加者8名の内の1人として推挙されたのである。この行 事は非常時に対し親しく陛下から青少年に対して賜わった勅論を体現して挙 行されたもので、参加すること自体非常な栄誉を伴うものであった。

徴兵検査で甲種合格となった千春は昭和18年1月10日、近衛歩兵一聠隊に入隊 した。当時の近衛師団へは全国から模範青年が選抜され、しかも家系について も念入りな調査が行われたという。近衛師団の歩兵連隊は、四ヶ聠隊で編成さ れ一、二聠隊は田安門から入った皇居に隣接したところにあり、三、四聠隊は 麻布にあった。一、二聠隊は専ら皇居内の警備に当たり、毎日一ヶ大隊づつが 交代これに当った。

皇居に出向かない日は、射撃と銃剣術に明け暮れ、訓練は猛烈を極めた。千春 は銃剣術賞と、射撃賞の二つの得がたい賞を得て、聠隊でも珍しい存在として 認められた。

千春は近衛師団での二期の検閲終了後、伏見宮護衛を命ぜられたが、昭和19年 4月には皇太子殿下護衛を命ぜられた。皇太子殿下は日光田母沢御用邸に滞在さ れており、近衛歩兵第一聠隊第四中隊が、日光儀隊として、護衛に当たり千春 もその一員として、日光に駐屯した。

東京空襲が熾烈になった昭和20年5月、皇太子殿下は更に奥日光湯本温泉南間ホテ ルに移られ、スキー小屋を改修して御学問所に充てられた。日光儀隊は毎朝夕殿 下を御送迎申し上げて事なきを期した。

日光儀隊は司令官に田中義人少佐、中隊長に大矢孝三郎大尉が任命されたが特に 田中小佐には万一の事態に対処する重大な任務がゆだねられていたという。

昭和20年8月15日、終戦の詔勅が下されたが、それに肯んじない宇都宮の師団長は 部隊を率いて、奥日光に進出し、威嚇射撃で気勢を挙げつつ、儀隊司令官田中小 佐に面談をもとめた。師団長は皇太子殿下を擁して本土決戦を挑む覚悟であるこ とを申出て、直ちに皇太子をお渡し願いたいと軍刀をおしつけながら強硬な態度 を見せた。田中小佐は陛下の命によってお守りしている皇太子殿下は陛下の命令 がなければ絶対にお渡しすることは出来ないと拒絶したのであった。若し、万が 一皇太子殿下が叛乱部隊の手にゆだねられるようなことがあったとすれば、終戦 処理はどうなったであろうか歴史の一齣にも大きな変化がみられたにちがいいない。

皇太子殿下を無事にお守りして終戦を迎えた日光儀隊は、9月20日、殿下が東京に 帰られると同時に東京に引揚げた。千春らは残務整理の後、宮内省皇宮衛士隊に服 務していたが昭和21年3月依願退職して、丸亀に帰還した。

このようにみて来ると、千春の軍隊体験は近衛師団に在籍していた関係等もあって 戦地に行くこともなく、しかも最後には皇太子殿下護衛という名誉ある職責を全う することが出来たことは稀に見る幸運児であったといえよう。皇太子殿下を最後ま でお守りした誇りに生きる日光儀隊の人達はその後当時の中隊長大矢孝三郎氏を会 長にして、日光儀隊会を結成して、毎年会合を重ねて、当時を偲んでいる。千春は この会の幹事役として、通信連絡その他の面倒を見ている。

昭和57年7月27日には、手塚侍徒のご斡旋で、日光儀隊会員夫婦約百名が、東京御所 に迎えられ、皇太子ご夫婦に拝謁を賜わり、茶菓をいただきながら、当時のことを 偲んでご夫婦と親しく談笑するという、異例の機会を与えられたことは、千春に取 って最大の栄誉であり、妻と共に感涙にむせんだ。

昭和21年3月丸亀に帰還し、父が一人で守ってきた石材業に本格的に取り組むことと なったが、終戦後の石材業界は混沌として前途多難の様相をみせていた。戦時下石材 業界は、政府指導による企業合同によつて香川県石材協同組合が設立され、父は丸亀 支部長として采配を振るっていた。主として機械の据付用の定盤石を製作していたが 終戦によって、これらが不用品となり、多量の在貨を抱えたまま処分に困り果て、終 には家屋を処分する間際にまで追い込まれるに至ったのである。

千春は八方奔走して、やっと姫路電鉄へ製品を納入する契約を取り付けた。かくして 徐々に終戦後の混乱期を抜け出し、昭和25年の朝鮮戦争を契機として、石材市場にも 明るい曙光が射し始めたのである。

昭和25年2月21日の結婚を契機として、事業への意欲は一段と躍進し、神出鬼没の営業 活動に乗り出したのである。営業活動の要諦は、情報(インテリジェンス)と縁故(コ ネ)の活用にありと判断し積極的活動を開始した。

徳島県東部(牟岐、宍喰地区)高知県甲浦地区に花崗岩の産出がないことに着目し、遺 族会、農協、漁業組合等に依頼して、同地帯への墓石の納入を一手に引き受け、26年か ら約10ヶ年間にわたって、月平均3百本の墓石を納入売却した。昭和35年頃になって庵 治石材が同地方への進出を始めるや変わり身早く方向転換して、和歌山県方面へ売り込 みを意図し、香川県庁の推薦状をもらって和歌山県庁に出向き、遺族会長を紹介しても らい、海南市を中心に郡部一帯に販路を拡張した。

昭和37年には京都府宮津市市長(一色清三郎)の引立てにより、丹後一帯の墓石工事を 一手に引き受けるに至って四宮石材の名声は一気に広まり、以降京都市内からの受注が 激増した。

昭和45年9月大阪府高槻市に株式会社京石を設立、代表取締役に就任した。 昭和46年、大平総理の推薦で総本山四天王寺・高安山霊園の指定をうけた外 総本山比叡山延暦寺・延暦寺大霊園の開園と同時に阪急産業堀田会長の推薦で大阪でただ 一社の指定を受けた。 平成元年5月総本山金剛峯寺 高野山中之橋霊園の指定を受ける。 平成22年12月現在、近畿地区及び四国で30ヶ所の霊園・寺院よりの指定をいただき、墓地 墓石の総合コンサルタントとして、従業員一同日々邁進努力しています。

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